ハートオフィス・あおい

NEWS RELEASE 新着情報

心理職に関する閑話

3種類の幸せ(3/3)~幸せとは、輪のように巡りくるもの~

みなさま、いつもありがとうございます。

一昨日よりお送りしているテーマ(※)
日本文学研究者のロバート・キャンベルさんが思い浮かべる3種類の『幸せ』とは・・・
(引用:『JAF MATE(2020年4月号)』内のエッセイ『幸せってなんだろう』)

きょうが最後です。


③ 危機回避後の『安堵型』幸せ

迫る危機を辛くも回避できたときに感じる、①で紹介した『零れ幸い』の逆パターン。

落ちてきそうな不幸の種を上手にかわし、事なきを得たときの状況を言う。

家賃支払いの期日より2日前、たまたまATMに寄って貯金残高を確かめてみると
ほぼ底をついている・・・

まずい。家賃が落ちない。どうしよう。。。と
一晩気をもんで明くる朝に再度愛称番号を打ち込むと、忘れていたバイト代が振り込まれている。

ホッとして吸う空気までおいしく、「ああ、よかった」と。

安堵型の幸せは日本人の長い歴史の中で重要なものとされてきた。

一例は、幕末に福井城下で妻と子と3人でつつましく暮らしていた歌人
橘曙覧(たちばなあけみ)の一首

 たのしみは あき米櫃に米いでき 今一月は よしといふとき (『独楽吟』より)

残高が0(ゼロ)のATM状態から見直して「よし」
「1ヶ月は何とか安泰だぞ」という喜びの表情に満ちた歌である。

憂いは喜びに転じ、しかしまた憂いに戻ってしまうかもしれないという
メビウスの輪にも似た日本人特有の『苦楽感』が表れており
数多くの文学作品にもこの安堵型の幸せが登場する。

 「得体の知れない不吉な塊」に心を圧(おさ)えつけられた私であったが
 果物屋でレモンを握った瞬に不安が弛み、歩きながら「私は街の上で非常に幸福であった」

 (梶井基次郎『檸檬』より)

日本人の幸せは往々にして巡りくるもので
影の深いところから明るい方へと向かっていくのである。


 (※)『3種類の幸せ ~幸せとは、輪のように巡りくるもの~ 』過去掲載分
    http://www.heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/793
    http://www.heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/794

3種類の幸せ(2/3)~幸せとは、輪のように巡りくるもの~

みなさま、いつもありがとうございます。

昨日よりお送りしているテーマ(※)
日本文学研究者のロバート・キャンベルさんが思い浮かべる3種類の『幸せ』とは・・・
(参照:『JAF MATE(2020年4月号)』内のエッセイ『幸せってなんだろう』)

きょうが2つめです。


② 目標達成型の幸せ

人生の途中で設定し、努力を積み重ねた結果
その成果が実り、報いられたという『満足感』

例えば

・つらい受験勉強の末、第一志望の学校に合格したこと
・長い月日を経て、望んだ相手との結婚が叶ったこと
・事業が軌道に乗ってようやく自社ビルを建てられたこと

など、どちらかといえば長い時間を要する人生のターニングポイントにおきた成果の表れ。

“投資回収型の幸せ” という言い方も。


 (※)『3種類の幸せ ~幸せとは、輪のように巡りくるもの~ 』過去掲載分
    http://www.heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/793

3種類の幸せ(1/3)~幸せとは、輪のように巡りくるもの~

みなさま、いつもありがとうございます。

JAF会員に月1回届けられる会報誌『JAF MATE』のコンテンツの中に
『幸せってなんだろう』というエッセイがあり、各界の著名な方が文筆されているわけですが
今回(2020年4月号)文筆された日本文学研究者のロバート・キャンベルさんの内容に
とても共感を覚えたのでそれを紹介したいと思います。

キャンベルさんいわく、『幸せ』について3種類思い浮かべるとのこと。


① 零れ幸い(棚からぼたもち)型の幸せ

予期しないし、与えられるのに十分な努力をしているとは言い切れないが故
それがかえって一瞬のうれしさを倍増させてくれる、いわゆる『棚からぼたもち』型の幸せ。

とはいえ、高いところから甘い固形物がズドンと落ちるというものではなく
“幸せの液粒” がぽたぽたと『零(こぼ)れる』ような幸せ。。。

英語で『零れる( = spill overflow )』といえば
コーヒーや涙など、本来零れてほしくないものが目に浮かび、あまりうれしくないのだが
日本語の『零れる笑み』や『零れ桜』などと聞くと、むしろ一瞬の柔らかな心地よい風情が頭をよぎる。

安い居酒屋に入ったとする。
何気なく注文した酒の肴が意外に美味しいことに気づき、ハッとする・・・

まさに『零れ幸い』


(残りの2つは、あす、あさって書いていきます)

心理職の考える最大の『癒し』とは(2/2)

みなさま、いつもありがとうございます。

前回のプレスリリースにて、『癒される』とは『欲求が満たされる』ことであるとしました。
そして、“ほんとうの” 癒しを得るためには、対人関係の見直しがカギになるということを述べました。
(前回URL:http://heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/734 )

きょうは少しその部分に踏み込んで書きたいと思います。


人間に様々な欲求があるわけですが
その中でも見逃せないのは、人には『承認欲求』という欲求が存在すること。
簡単にいうと「他者から認められたい、尊敬されたい」と願う気持ちのことです。

この気持ちは、何も大人になって働くようになってから抱くものではありません。

小さな子どもならきっと両親から認めてもらおうとするでしょうし
学校に行くようになればクラスの仲間から認められようと一生懸命になるはずです。


インターネット・スマホなどの普及、あらゆるものの自動化により
世の中が便利になりすぎて、いわば “ひとりで” 何不自由なく生きていける時代。

一方、人間関係が希薄になりすぎて
本来生活の中で簡単に得られた『承認欲求』が得られなくなったというのも事実。


よって、心理職としての私が考える最大の『癒し』とは
『承認欲求』が満たされること にあるのだと思います。

もう少し詳しく書くならば

・心のモヤモヤ・不安・グチを否定せず、丁寧に聴いてもらったこと
・苦しみ・悲しみ・つらさなどが(ひいては、うれしさや痛みといったものも含めて)
 人に分かってもらえたこと
・それによって、自分のすべてを受け入れてもらえたと実感できたこと


といったところでしょうか。

(「最大の(癒し)」というと少しオーバーかもしれませんが、「(癒しの)根源(となるもの)」というと、なんとなく納得していただけるのではないかと思います)


身体が疲れたり凝ったりしたとき
マッサージやリフレなどをしてもらうと、当然「癒された」と感じるわけですが
その根源となっているのは、(マッサージやリフレという)手段だけではなく
施術していただいた方との会話だったり、「 “その人” にやってもらったから」という部分は
実は結構大きいのではないでしょうか。


そう。大切なのは、自分と、自分の身の回りの人たちが持っているであろう
お互いの『承認欲求』を満たすような人間関係を築くことにあると思います。

 心理学の世界では
 『「I am OK.」「You are OK.」の関係』と言ったり
 『ラポール関係』などと言ったりします。


そのため、「癒されたい」と思って一方的に『癒し』を求めるとなると
どうしても他人に期待しすぎてしまう傾向になりますので
(結果、自分の思い通りにならないと人のせいにしてしまう)
自分の周りの人の存在を “認める” ところから始めていただきたいと思います。

心理職の考える最大の『癒し』とは(1/2)

みなさま、いつもありがとうございます。

多くの人々が「癒されたい」と感じています。
(当然、私自身もそう思うときがあります)

『癒し』をテーマにした商品は山のようにありますし
『癒し』に関する職業も数多く存在します。
(ex 整体・マッサージ・リフレ、カフェ、動植物関連、各種セラピー etc… )


そもそも『癒し』とは何なのでしょうか?

医学的には
「脳の視床下部からオキシトシンという物質が分泌されるため」とか
「メラトニンという物質が分泌されて副交感神経優位に働くため」などありますが
少し難しい話になってしまうので
「癒された」と感じるときの構図を簡単に書いてみると・・・

〔手段(癒しを導くもの)〕     〔背景(癒しを求めるもと)
美味しいもの・甘いものを食べる  ( ← さみしい、物足りなさ・虚無感)
好きな友達と会って会話する    ( ← さみしい、グチなど聞いてほしい)
大声を出す、コンサートに行く   ( ← たまったものを発散させたい)
ほぐしてもらう          ( ← 体の疲れ・だるさ・コリを治したい)
アロマ、音楽を聴く、お風呂に入る ( ← リラックスしたい)
深呼吸をする           ( ← リラックスしたい、緊張や不安を取り除きたい)
動物・子どもに触れる       ( ← 優しい気持ちを取り戻したい)
旅行に行く、緑の中を散歩する   ( ← 現実から少し距離を置きたい、気持ちを整理したい)

など。


こんな単純なものではないにしろ、このように考えた場合

「癒される」=「欲求が満たされる」

と言えなくもない・・・

なので、「癒されたい」と思って下手に『癒し』を求めるよりは
自分に何が足りていないのか、何がどうなっているといいのかをちゃんと把握し
それを満たしていくに越したことはないかのもしれません。


また、私の人生経験上、上の例にあげた癒しの手段の多くは
“表面上の癒し” というか、一時性のもので持続性がないような気がします。
(誤解のないように少し言い方を変えると、持続して行わないと意味がないというか)

例えるなら、熱いシャワーを浴びることで身体が温まった気分になるような・・・
(そのときは温かいけれど、すぐに冷えて元の状態に戻ってしまう)

それはそれでいいのかもしれないけど、本来であれば
半身浴のような、“身体の芯から温まる” ようなものでないといけないと思うのです。
(最初はなかなか温かいと感じない。けれど、一旦温かさを感じるとそれが持続する)


なぜ私がそう思うのか?

それは、心理学者アルフレッド・アドラーが
「すべての悩みは対人関係の悩みである」と定義づけたように
人が ”ほんとうに” 癒されるためには、周りの人との関係性を見直すことに
大きなヒントが隠されていると考えているからです。


詳しくはまた次回書きます。

アドラーの目的論②:「大声を出すために怒る」とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

前回のテーマ( http://heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/720 )に引き続き
心理学者アドラーの推奨した『目的論』について
(『原因論』との違いについて)
ひとつ、例を挙げて紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

レストランで、客の男性がウェイターにコーヒーをこぼされ、一張羅の背広を汚された
男性は反射的に大声を出し、店中に響き渡るようにウェイターを怒鳴りつけた


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この場合、一般的には
「コーヒーをこぼされて怒りを感じたから大声をだした」
(大声を出した『原因』は、コーヒーをこぼされ怒りを感じたから)
と考えがちなのですが

アドラー心理学では
「大声を出すために怒った」
(大声を出したのには、他ならぬ『目的』があるため)
と考えます。


上の例でいうと

「ウェイターに謝らせたい」
「自分が客(上の立場)であることを誇示したい」
「クリーニング代を支払わせたい」

といった『目的』があるから大声を出した。ということになります。


もちろん、この例だと
『コーヒーをこぼされたこと』と『大声を出したこと』との間に
ほとんどタイムラグがないので
コーヒーをこぼされたことによる怒りが大声を出した原因と考えがちですが
もし仮に、美人のウェイトレスにコーヒーをこぼされたとしたら
男性はどんな対応をとっていたでしょうか?

瞬時に自分の取るべき行動を判断して
「あ、大丈夫です。気にしなくていいですよ」
と笑顔で答えていたかもしれませんよね。

(この場合、ウェイトレスに「寛大な人間であるというところを見せたい」という『目的』がある)


そのほかにも
「過去自分にこんなつらいことがあった」というのは
「相手の同情を引く」という目的を叶えるための手段のひとつと考えることもできますし
「不安なので○○できない」というのは
「○○したくないので不安を創り出している」というように考えることができます。


もちろん、当の本人にとってみれば
(問題や悩みを抱えて)大変苦しい思いをしているわけですが

「起きた出来事に対してどう捉えるかは自分次第」
「いまの自分は、自分が選んで創り出している」


という感覚(自覚)が少しでも持てるようになれば
きのう、きょうと紹介したアドラーの『目的論』を応用することによって
さまざまな悩み・問題を解決できる可能性があるかもしれません。

(とはいえ、それを習得するにはかなり修業が必要ですけどね)

アドラーの目的論①:『原因探し』って、結構いい加減

みなさま、いつもありがとうございます。

何か問題や悩み・病気などを抱えているとき
その箇所や原因を見つけ出して、対処したり除去することを考えますよね。
(病気になってしまったのなら当然そうするべきですが)

しかしながら、心理学者アルフレッド・アドラーが
「起きた出来事に対してどう捉えるかは自分次第だよ」
という『目的論』を推奨するように、生じてしまった問題や悩みに対して
「いまの悩み(問題)があるのは、このことが元になっているからだ」と
その原因を探して決めつけてしまうのは、かえってよくなかったりします。


なぜ『原因探し』が必ずしもよくないのか・・・

タイトルにある
「『原因探し』って、結構いい加減」の例をひとつ挙げてみると・・・


よくある「人を好きになる」

なぜその人を好きになったのか、いろいろ考えていくと・・・
(原因を追究していくと)

・優しくて意見を聞いてくれる
・頼りがいがある
・几帳面でしっかりしている  など


今度は反対に「人を嫌いになる」

なぜその人を嫌いになったのか、いろいろ考えていくと・・・
(原因を追究していくと)

・自分の意見がなくて優柔不断
・支配的
・細かいことにこだわりすぎる  など


そう。

すでに気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんが
『原因を探す』という行為は、自分にとって
『都合のいい捉え方(解釈)をする』ための手段に過ぎなかったりします。
(同じように「評価」というのも、自分にとって都合のいいものにしてしまいがち)

上の例でいうと

   〔好きな理由〕         〔嫌いな理由〕
「優しくて意見を聞いてくれる」=「自分の意見がなくて優柔不断」
「頼りがいがある」      =「支配的」
「几帳面でしっかりしている」 =「細かいことにこだわりすぎる」

の関係。
(解釈の仕方で好きにもなるし嫌いにもなる)


このことをアドラーの『目的論』にあてはめると

「この人との関係を続ける」という目的のために、その原因となる『好きなところ』を見つける。
(肯定的な評価をする)

「この人との関係を断つ」という目的のために、その原因となる『嫌いなところ』を見つける。
(否定的な評価をする)

ということになります。


よくある「結婚したいけど、出会いがない」

『出会いがない』のは事実かもしれないけど
本当は「いまの生活スタイルを変えたくない」とか
「出会いを求めるのがめんどくさい」「見ず知らずの異性と話をするのがすごく疲れる」という
“本音” が隠されていることが多かったりしますよね。

(「お金がない」という理由(言い訳)も、上と同じような感覚としてあると思います)


ただ、あまりにも
「原因探しはダメ」「言い訳はダメ」と自分を縛り付けてしまうと
それはそれで苦しくなってしまうので、自分なりの上手な “さじ加減” が必要となってきそうです。

カウンセラー・コーチに必要なこと(3/3)

みなさま、いつもありがとうございます。

前回、前々回の続き
私の尊敬するカウンセラー、諸富祥彦さんが提唱するカウンセラー・コーチに必要な3つの条件(※)
きょうはその3つめ(最後)です。
(引用:『カウンセリングとは何か』 諸富祥彦著 誠信書房)


③ クライエントさんの傍らにとどまり続けることができるかどうか

辛い気持ち…  不安な気持ち…  どうしようもない気持ち…
あいまいな気持ち…  どろどろした気持ち…  絶望的な気持ち…
揺れ動く気持ち…  暗い森の中をさまようような気持ち…

そんなクライエントさんの気持ちから逃げ出さず、しっかりそこに『とどまり続ける』ことができる人こそが、カウンセラー・コーチとしてふさわしい3つめ(最後)の条件と言えそうです。

これができない人は、クライエントさんの『苦しい話』を聴き続けることに耐えられなくなって
・「ほかの道を探しましょう」とアドバイスしたり…
・「あなたならできますよ」と励ましたり…
・なんとか前向きにさせようと促したり…

そうするとクライエントさんは置いてけぼりをくらった感じになり
「この人には分かってもらえない」という気持ちになってしまいます。

クライエントの立場になって考えたとき
・わたしの心の痛みの位置まで『降りてきてくれる』こと
・こちらの痛みを『共有してくれる』こと
・そして一緒に『とどまっていてくれる』こと
が大事になってきますので、クライエントさんの心の痛みを聴くことで自身の心も痛んでしまった…
そう感じることも(ほんの少しでいいとは思いますが)必要になってくると思います。

また
「クライエントさんの方が私よりずっとちゃんと生きてこられて… だから傷ついて病気になられた」
と敬意を抱くことも、とても大切なことなのではと思います。

クライエントさんの『暗闇をさまよう、どんよりした心のプロセス』から決して逃げない。
その深さ、暗さの次元、こころの闇の世界から逃げ出さず、しっかりとそこにとどまり、寄り添い続けられること。
こうした『ほんとうの人間としての強さ』が備わっていることを最後の条件として挙げたいと思います。


 (※:『カウンセラー・コーチに必要なこと』過去掲載分)
 http://heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/706
 http://heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/707

カウンセラー・コーチに必要なこと(2/3)

みなさま、いつもありがとうございます。

前回の続き
私の尊敬するカウンセラー、諸富祥彦さんが提唱するカウンセラー・コーチに必要な3つの条件(※)
きょうはその2つめです。
(引用:『カウンセリングとは何か』 諸富祥彦著 誠信書房)


② 自分自身を普段から深く見つめることができているかどうか

カウンセラー・コーチとしてよりよい活動をしていくためは、日々の忙しい生活の中でも
自分自身の内側の傷つきや揺れ動く気持ちとしっかり向き合い、自分を深く見つめ続け
そして丁寧に付き合っていくことがとても大切なことだと思います。

ただ、それによって傷つきを抱えたままでは、クライエントさんと変わらないわけなので
カウンセラー自身が定期的にカウンセリングを受けるなど、必要な気づきや学びを得て
自己成長につなげていく必要があります。

そういった意味では、さまざまな悩みや苦しみを体験し、それによって多くの気づきを得て
自己成長された方のほうがよりよいカウンセラー・コーチということができるかもしれません。

(とはいえ、外見では分かりにくいので、判断が難しいですけどね)

前回述べた『本気で生きる』ことにプラスして
『とことん自分に向き合い、自分から逃げず、自分に正直に生きること』ができる方。

そして(少し繰り返しになりますが)クライエントさんに真正面に立ち向かっていくためには
自身の感情の揺れとある程度の『距離』をとり、客観的に『眺める』姿勢を保つ必要がありますので
普段から自分自身を深く見つめ、感情を把握しておくことが、カウンセラー・コーチにとって必要な
第二の条件と言えそうです。


 (※:『カウンセラー・コーチに必要なこと』過去掲載分)
 http://heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/706

カウンセラー・コーチに必要なこと(1/3)

みなさま、いつもありがとうございます。

直接お会いしたことはないのですが、私の尊敬するカウンセラーのひとりに
明治大学文学部教授の諸富祥彦さんという方がいらっしゃいます。
(諸富祥彦さん公式HP:https://morotomi.net/

その諸富さんの、とある著書の中の一項目に『カウンセラーの条件』というものがあり
(正式には『カウンセラーを目指すための条件』)かなり共感する部分がありましたので
諸富さんの言葉をお借りしつつ、きょうから3回にわたって紹介していきます。

当然、私自身も、これから紹介する『条件』を肝に銘じ
皆様に対し誠心誠意向き合えるよう、自己鍛錬・自己研鑽に努めていく次第です。


① 本気で生きているかどうか

真摯に自分自身に向き合い、自分に正直に、かつ本気で生きていこうとするためには
悩みや傷つきは避けて通れることはできません。

・本気で仕事をしてきたからこそ、小さいと思える失敗でさえ大きく傷つき、自信をなくしてしまう
・本気で恋をしてきたからこそ、恋に破れたとき、喪失感に苛(さいな)まれ重く傷ついてしまう
・本気で夫婦生活に取り組んできたからこそ、意見のすれ違いや食い違いで悩み苦しんでしまう
・本気で生きてきたからこそ、思い悩み、ときに絶望し、ときに心の病気になってしまう etc…

適当なところで妥協したり、逃げ・甘え・わがままを活用して生きていくことができるのなら
大きな痛みや傷を抱えることもなく平平凡凡と過ごしていくことができるわけですが
それをしなくない(もしくは、できない)からこそ本気で生き、そして悩み苦しむことが多いようです。

もし仮に、カウンセラー・コーチが妥協の産物で、本気で生きていないとするとどうでしょうか?

おそらく、その空気感がすぐにクライエントさんに伝わり
「妥協して “なぁなぁ” で生きているような人に、私の気持ちを分かってもらえるはずがない」と
思われてしまうことと思います。

『クライエントの人生を取り扱う』という責任の重大さと、それに挑む覚悟を持つのはもちろんのこと
自分自身の心や抱えている問題と真正面から向き合い、ときに怒り、ときに嗚咽するくらい涙を流すなど
数多くの苦しい思いや自己成長を経て、やっとの思いで自分自身を『受容』できるようになったからこそ
カウンセラー・コーチとして貢献できるものだと考えております。

そのため、自身の社会に対する役割を十分把握し、1日1日を大切に『本気で生きている』ことこそが
カウンセラー・コーチにとって必要な第一条件と言えそうです。


(引用:『カウンセリングとは何か』 諸富祥彦著 誠信書房)