ハートオフィス・あおい

NEWS RELEASE 新着情報

明日につながる希望の哲学

眠れぬ夜に〔♯29〕『午前0時』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯29〕

『午前0時(ごぜんれいじ)』とは・・・
『人生のリセットボタン』である。



〔解釈とヒント〕

午前0時は24時間のスタート。

日付けの変わり目ですから
普通の時間とは、ちょっと意味合いが異なります。

NHKのEテレ『2355』という、ちょうど午前0時になる直前に
眠りを誘うようなアニメーションを淡々と流す5分間番組がありますが
なぜこの番組が人気があるのでしょうか?

もしかしたら、カウントダウンのようなイメージがあるかもしれませんね。

とにかく、すべてが変わるような
そんな印象を与えてくれるのが、この『午前0時』なのです。


とはいえ、実際には何も変わらないわけですが
何が変わるかというと、それは、私たちの意識ということになります。

眠れぬ夜に悶々としていても
午前0時になれば、新しい日がやってきますよね。

そしてその心理効果には、大きいものがあります。

悩みも自分も、何も変わらない現実の中で
その瞬間少なくとも日付けだけは変わるのです。

それを実感するには、時計の針が午前0時を過ぎるのを
見つめるだけで十分なのです。


しかも面白いのは、午前0時という数字・・・

24時間たったあとは、また0時に戻るのです。

これはすごろくで振り出しに戻るのに似た感覚があります。

その日いくら成功しようが失敗しようが
全員振り出しから “やり直し” なのです。

もう少し極端な言い方をすると、午前0時という時間は
きょうの1日だけでなく、それまでの人生のすべてをリセットし
もう一度最初から構築し直すチャンスを与えてくれているといえます。

つまり私たちは
そんな “人生のリセットボタン” を毎日押している といってもいいでしょう。


♪ぼくらは位置について、横一列でスタートをきった・・・
(作詞作曲:スガシカオ「Progress」より)

午前0時という一瞬は、もう一度そう感じさせてくれる大切な一瞬なのです。

あと一歩だけ前に進むためにも・・・


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯28〕『美』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯28〕

『美(び)』とは・・・
『心を落ち着かせるもの』である。



〔解釈とヒント〕

『美』という1文字から連想するもの・・・

芸術品や伝統工芸だったり、女性だったり、センスだったり
人によっていろいろあるわけですが、端的に言えば
いいもの、理想的なもの(あこがれを含む)ということになるのかもしれません。


古代ギリシャの哲学者プラトン(427B.C.-347B.C.)は
『美』を「永遠の理想、つまりは完璧な状態であること」を定義しました。

完璧というのは、顔やスタイルに置き換えると、均整がとれているという意味です。
(平たく言えば「整っている」)

その一方で、芸術を見れば分かるように
美は左右対称だからいいというものではありません。

ときにはアンバランスが美しいということにもなるのです。

ピカソの絵しかり、盆栽しかり・・・

これらの芸術分野に代表されるように
近代に入ってから哲学者が唱える『美』は
主観的、感性的なものが主流になってきます。

そうなると、美の基準は人によってまちまちになることから
美というものが普遍的でないということになってしまうわけですが
これについて、ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は
『趣味判断』という概念を唱えています。

つまり、美の基準は人それぞれであっても
美という感覚を構成するのはどの人も同じメカニズムである という点に着目したのです。

よって、たとえ『美意識』が人によって異なったとしても
それらを共有できる可能性はあるというわけです。

また、カントは『共同体感覚』といって
同じ共同体ではそういう共通の土台があることも言っています。

同じ共同体にいると、感覚が同じになってくるのでしょう。

つまり日本人なら、この風土の中で過ごすことで
おなじ日本人的な美意識を持つようになるということです。


その他、時代によって『美の基準』が変わるのも同じような理由のひとつと言えそうです。

昔の写真や映像を見ると、ほんの十数年前にも
あんな服やメークが流行っていたのかと驚くことさえあります。

また、同じ一個人の中でも、年齢を重ねるによって美意識が変わっていくのも
ある意味、面白かったりします。​

でも実は、これはとても大事なことで
美意識が変わっていく、つまり “好みが変化する” というのは
実は好みの範囲が広がることを意味しており
何が完全なのか判断する際の幅が広がるということです。

つまりこれは、美に関しても寛容になる ことを意味し
美に関して寛容になるということは
他者をより認めることができるようになることにつながります。

「日本人だからといって日本人しか美しいと思わない」というのでは
人種的偏見につながりますよね。

それを克服するためにも
美意識の幅が広がるのは望ましいことと言えます。


日常においても、何でも美しいと思うことができれば
自然と心がおおおらかになるのではないでしょうか?

ちなみに、女性がリラックスのために行くエステは
『エステティック(美的)』に由来する語ですが
なんでも美的と思うことでリラックスできるなら
こんな手ごろなエステはありません。

リラックスして眠るなら、マッサージも何もいらないのです。

ただ周りにあるものを美しいと思えばいいだけですから。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯27〕『色』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯27〕

『色(いろ)』とは・・・
『感性を映すもの』である。



〔解釈とヒント〕

日本人に「虹は何色ありますか?」と質問してみた場合
多くの人が「7色」と答えると思います。

確かに、日本の虹の色は
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色と “決まって” います。

でも、古代にさかのぼってみると5色だったそうです。

これは、虹そのものが変わってしまったわけでも
科学の進展によって新事実が発見されたわけでもありません。

単に「色の数が増えた」のです。

ちょっと黄色がかった赤に別の色の名前をつけただけなのです。

「赤と橙を区別しよう」というように。


これと同じ理屈で、いまでも欧米では虹の色は5,6色されています。

アフリカでは2,3色という民族もあるそうです。

どうしてそうなるかというと
その国(民族)に微妙な色の違いを表現する言葉がないからです。


ひとつ例に挙げてみると・・・

フランスには蛾がいないと言われていますが
それは、蝶を表わす「パピヨン」という語が
蛾も含んでいるからです。

フランスには実際に蛾はいるわけですが
蝶と蛾を区別する必要がないため
蛾に相当する言葉がないということになります。


つまり、国や地域によって
物事を区別する感性が異なることになりますね。


さて、話を『色の話』に戻して・・・

日本語には色の名前が何百種類(いや、もっとかな)もあります。

萌黄色とか、群青色のように。

おそらく、それだけ感性が豊かな証拠なのでしょう。

季節の移り変わりにも敏感で
自然の微妙な変化にも気を配る傾向がありますから
当然それらを表現する色も豊富にあるわけです。

よって、色は感性を映しているといっても過言ではないと思います。


そういった意味では「色っぽい」という言葉も
単純にせっくすセックスシンボルとしての意味を持つだけではなさそうです。

アメリカだとセクシーはセックスシンボルを形容しますが
日本の「色っぽい」は、まさに「色々」なのです。


ちなみに、皆さんの人生は何色ですか?

私は、もちろん

「バラ色」

になれば、うれしいなぁ・・・


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯26〕『1(いち)』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯26〕


『 1(いち)』とは・・・
『物事の全体』である。



〔解釈とヒント〕

きょう1日、みなさんはどのような数字に出会いましたか?

・500円のお弁当を買った人
・エレベーターで8階のボタンを押した人
・経理で百万単位の計算をした人 etc…

人は様々な場面で数字と関りを持つわけですが
とりわけ『1』という数字は、特別な意味をもっているような気がします。


『1』は『ひとつ』を意味するので
まるで物事の一部であるかのように思う方もいらっしゃるかもしれませんが
実はそうではありません。

物事の全体という場合だってあるのです。

例えば、ホールケーキを想像してみたとき
ホールケーキそのものは1つですが、8人で分ければ8つになります。
つまり、8分の1が8つ集まって『全体』になったものなのです。


こうした発想に役立つのが
オランダの哲学者、バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)による
「1にして全」という表現。

もう少し具体的に言うと
あらゆるものの存在が、神の部分である(汎神論)という考え方で
精神や自然そのものなど、すべてのものが神と考えたわけです。


このスピノザの世界観は
比較的日本人には受け入れやすいもののような気がしませんか?

日本人の多くは、一見無神論者であるかのように見えますが
八百万の神という考え方に象徴されるように
人々は自然のいたるところに神がやどっていることを信じているからです。
(「汎神論者」という言い方もできるわけです)

この巨木に神が宿っているといわれると
その目の前の1本の木が、まるで神様の象徴であるかのように感じることがあります。

この感覚は、日本人なら分かると思います。

1本。つまり数字の1が全体を表すのを感じる瞬間です。


もちろん、きょう過ごした『1日』というのも
単なる人生の1日ではありません。

1日1日がその人の人生のすべてでもあるわけです。


『一期一会』という言葉を思い浮かべば分かるように
今日しか出会わなかった人にとっては、今日のあなたがすべてなのです。

これは、明日の1日も同じこと。

だから全力で明日を生きるためにも
今日はちょっとぐっすり眠ってくださいね。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯25〕『球体』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯25〕


『球体(きゅうたい)』とは・・・
『裏側への興味をかきたてるもの』である。



〔解釈とヒント〕

球体のような “まるいもの” って
親しみが持てたり、ちょっと心が和むようなところがあると思います。

そのひとつに、太陽や地球、月といった、いわば “自然の根源” が
まるい形をしているからなのだと思います。


私の小さい頃の話で恐縮ですが
地球儀を見るのがものすごく好きでした。

世界全体に国がどのくらいあって、それぞれの国や大陸がどのような形をしているのか
という興味はもちろんのこと
地球儀が北極と南極とを軸に『回転する』ところが好きでした。


自分が地球儀を回すことによって
「日本が昼なら、ヨーロッパは夜になるのかな?」
なんてイメージを子ども心に膨らませてみたり。

日本を目の前にしたとき、裏側のヨーロッパが気になり
ヨーロッパを目の前にしたとき、裏側の日本が気になり

その繰り返し・・・


なにもこれば、地球儀に限らず
すべての球体は一度に見ることができません。

だから常に裏側がどうなっているか気になるわけですし
『回転する』ことを前提にしているのかもしれません。

その意味で球体は、人に対して
裏側への興味をかきたてる存在ということができるように思えます。

子どもがボールを動かして裏側を見ようとするように
つい、球体の裏側をのぞき込もうとするものです。


哲学者のプラトンは
「目の前にある物事は、そのも物事の本質であるものの影に過ぎない」
といったことがあります。

もしかしたら私たちは
球体の裏側に「何かの本質のようなものが見える」と思って
のぞき込んでいるのかもしれません。

そういった意味で、球体とは
「裏側にある物事の本質への興味を掻き立てる存在」だと言えるでしょう。


こんなことを書いている間に
谷川俊太郎さんの『朝のリレー』という詩を思い出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が微笑みながら寝返りをうつとき
ローマの少年は柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球でいつもどこがで始まっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交換で地球を守る
眠る前のひととき耳を澄ますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴っている
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受け止めた証拠なのだ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の住んている、日本というステキな国の裏側に住んでいる人たちが
幸せに暮らしていることを願って・・・


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯24〕『「」(カギ括弧)』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯24〕

『「」(かぎかっこ)』とは・・・
『言葉の意味に出会い直す魔法』である。



〔解釈とヒント〕

みなさまは普段、(メールやSNSなど)文章を書くとき
カギ括弧を使うことはあるでしょうか?

 カギ括弧の使い方として
 話し言葉・引用・強調・特殊な意味を表す などありますが
 ここでは『特殊な意味』で用いる場合について考えてみたいと思います。


例えば、医者という言葉にカギ括弧をつけて・・・

「私は「医者」が嫌い」と表現した場合
単に医者を客観的に表しているのではなく
医者の持つ “悪い” イメージを表していることになりますし
(ex 金儲け主義、エリート意識、偉そう etc…)
婚活中の女性が「私は「医者」の人と結婚がしたいですと言ったとしたら
前者とはまったく異なるニュアンス(ex ステータスがあってお金持ち)を持つことになります。


そう。つまりカギ括弧には
そこには見えない、物事の本当の姿を浮かび上がらす効果があると言えます。

では、いったいなぜこんな “マーク” をつけたくらいで
言葉の意味が変わってくるのでしょうか?

これを解くヒントとして
オーストリア出身の哲学者、エトムント・フッサール(1859-1938)が
『エポケー』という概念を述べているのですが

ある物事について、最初に思い浮かべた事柄(思考)と
いったん間をおいて改めてもう一度その物事を思い浮かべようとした場合
最初の事柄(思考)とまったく異なる事柄(思考)を考え始める
傾向があるそうです。

少し難しいので、ひとつ例に挙げてみると・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

道端に落ちていた真っ赤なリンゴ。
最初は「おいしそうだなぁ~」と感じたとしても
改めてもう一度そのリンゴをじっくり見たとき
「ひょっとしてこれば毒リンゴかも」とか
「ひょっとしてこれはリンゴの形をした爆弾かも」と思い始めた・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このように、一度思考を止め(間をおいて)改めて思考を動かした際
まったく異なった考察をしてしまうようなところがあることが
カギ括弧の効果のひとつにあるということ。

つまり

道端に落ちていた “おいしそうな” リンゴが、カギ括弧つきに「リンゴ」になったことで
いわくつきの “あやしい” リンゴに変化してしまったということになります。

さきほどの例にも挙げた「医者」もそうですが、人は
その意味を改めて考え始めることで、自分にとってもっともらしい意味を付与する のです。


もし、みなさんにちょっとした時間があるのなら
いろいろな言葉にカギ括弧をつけて一度考えてみるのもいいかもしれませんね。

普段何気なく使っている言葉を、次々カギ括弧に入れて考えてみることで
それまで見えなかったその言葉の “ほんとうの姿” が明らかになってくると思います。

そしてその “ほんとうの姿” こそが
その言葉に対する “ほんとうの気持ち” ということになるのです。


慣れ親しんだ言葉との「新たな」出会い。

試してみると、面白いと思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯23〕『無』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯23〕

『無(む)』とは・・・
『無限にあること』である。



〔解釈とヒント〕

「自分には何もない」と嘆く人がいます。

果たして、本当にそうなのでしょうか?

確かに、仕事を失った人、大切な誰かを失った人、大きな失敗をした人などは
一時的にそのように思うことがあるかもしれません。

ただ、だからといって「何もない」と嘆いてしまうのは
二重の意味で間違っているような気がします。

ひとつは、なくなったものは一部のものに過ぎない という点について。
もうひとつは、『ない』とは無限にあることの “裏返し” だという点において。

最初の理由はよくわかると思います。

人間が本当に何もなくなるということはありません。

仕事や恋人を失おうとも、お金がなくなろうとも
(少なくても、自分が死んでこの世から消えてしまわない限り)
自分の身体や意識は残ります。

そう。 つまり、何もないというのは
(ここから、もうひとつの理由の説明になってきますが)
あくまで限定された状況にある『無』なので、 新しい何かが『ある』ことの始まりとなるわけです。


「日本人の庭は無だ」と表現されることがありますが
それは、西洋人が “慣れ親しんでいる” オブジェがないからにすぎません。

むしろ、日本の文化においては
禅の瞑想や美意識などにみられるように
何かがあるほうが(かえって)よくないとされることがあったりします。

おそらく、日本人は、その『無』の中に “無限の何か” を感じているからかもしれません。

「何もない」のではなく、無限に何かが「ある」のです。

宇宙の仕組みをみてもそう。

宇宙にはこんなにたくさんの星があるのに
その根源はブラックホールという名の『無』なのです。

そしてブラックホールは、無であると同時に『無限大』でもあります。


だから私たちも、「ない」ことを嘆く必要などまったくないと思います。

禅や芸術に限らず、日常においてさえも
何かがなくなってしまったことや、ないという状態において
もっと肯定的になればいいと思います。

「お金がない」のは、無限に貯めることのできる前提ですし
「気力がない」のは、無限にやる気が湧いてくる前提でもあります。

いまは疲れ果てているかもしれませんが
朝起きれば、また気力が湧いてくるに違いありません。

それは、『無』が『無限の有』だからです。


この命が尽きるまで、自分には無限の可能性が秘められているということで・・・

少しでも自分に勇気が持てるきっかけになればと思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯22〕『地域社会』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯22〕

『地域社会(ちいきしゃかい)』とは・・・
『お互いさまの空間』である。



〔解釈とヒント〕

普段の生活の中で、ものすごく大切なことなのですが
あまり意識しないもののひとつに『地域社会』というのがあります。

なぜ、ごみが回収されるのか?
なぜ、毎日安心して暮らせるのか?
なぜ、道沿いの街路樹や植木が整えられているのか?

それは地域社会がきちんと機能していることになります。


ではいったい、誰が地域社会を守っているかということになりますが、それは
警察官でもなく、近所を見守るおじさんやおばさんでもなく
(もちろん、その方たちの役割はものすごく重要ですが)
実は『私たち自身』なのです。

その場所に住んでいる以上、地域社会の一員であることは間違いないですし
自分の住んでいる地域の人のうち、誰か一人でも強盗に入られたとしたら
地域の安全は脅かされてしまいますよね。

つまり、地域の安全は
そこに住む我々一人ひとりの手にかかっているということになります。


そこで大切になってくるのが
(同じ地域社会を作る人たちを)『信頼する』という考え。

地域社会の人たちの行為を信頼しているからこそ
安心して毎日を過ごしていることになりますし
たとえ深い付き合いまではしなくても
お互い危険人物でないことは了解しています。

さらに何かあったとき、助け合うことも可能です。

過去に起こった数多くの災害に見られるように
自分を犠牲にしてでも助け合うのです。


では、なぜこんなことができるのでしょうか?


おそらくそこは、地域社会のメンバーの一人ひとりを結びつける
『お互いさま』の精神があるのではないでしょうか。

お互いさまというのは
困ったときには当然のように相手を助け、見返りを求めない行為 です。


通勤通学の際、何の警戒もなしに歩ける地域社会・・・

ごみをあさる人もいず、夜襲ってくる人もいない地域社会・・・

そしていざというときには助け合える地域社会・・・

こんなかわいげのある地域社会のために何かもっとできることはないか
少し考えてみるのもいいかもしれませんね。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯21〕『ペットを飼う』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯21〕

『ペットを飼う(ぺっとをかう)』とは・・・
『自分をかわいがること』である。



〔解釈とヒント〕

ペットは人を癒してくれます。

ペットに話しかけたり、つい、愚痴をこぼしてしまうことも
よくあることかもしれません。

カメに向かって
「おまえはのんきでいいよな~」
と話しかけてみたり・・・

でもこれは、カメにとってみれば失礼な話。

カメは別にのんきなわけではないのです。

カメにはカメの生活のペースがあって
ひょっとしたら、毎日必死に生きているのかもしれません。


多くの人たちは、動物と人間が
本質的に異なる生き物であると考えがちです。

というのは、動物は話すこともできませんし
物事を論理的に考えるための理性も持っていないと考えるからです。

しかし、実はそういう『人間中心主義』の発想こそが
動物虐待、ひいては、生態系の破壊をもたらしているといっても過言ではありません。


動物倫理の権威であるオーストラリア出身の
ピーター・シンガー(1946- )は、『動物解放論』の中で

「動物の命をむやみに奪ったり、動物を苦しめることは
 世界全体の幸福にとってプラスにならないのでやめるべきだ」


と唱えています。

虐待されたり、殺されたりする動物が “痛がっている” のは、間違いありません。

「その苦痛を世の中の幸せを計算する際に考慮せよ」

と言っています。


さて、話はペットに戻り・・・

さきほどの話にもあったように、私たちは知らず知らずのうちに
ペット(動物)に対し、人間中心主義的なふるまいをしてしまいます。

ペットをかわいがるといいながら、実際には自分自身をかわいがっているのです。

そのためにペットを利用しているだけということになります。

ペットがかわいいなら、犬を鎖で縛りつけておく必要はないでしょう。

犬に鎖をつけるのは
「逃げられたくない」という人間都合主義の考え方にすぎません。
(犬は自由に走り回りたいのです)

 「コホンッ」(←咳払い)

何もそこまで極端でなくてもいいかもしれませんが
もう少しペットの気持ちになってもいいんじゃないかな。と思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯20〕『喧嘩をする』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯20〕

『喧嘩をする(けんかをする)』とは・・・
『アイデンティティが確立されていないこと』である。



〔解釈とヒント〕

あとになって後悔することのひとつに
『けんか』というのがあると思います。

自分が相手に対して正しい・間違っている関係なく
「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」とか
「どうしてあんなことでキレてしまったのだろう」というように。

もともとしっかり議論できていれば、けんかをする必要がないわけなので
けんかをするということは、議論ができていない状態ということになります。

そして、議論できない状態というのは
冷静さを欠き、相手の話を聴く耳も持たず
自分の主張を一方的に押し付けようとする状態をいいます。


では、どうしてそんなことになってしまったのでしょうか?


けんかをしているときは、お互いに「相手が悪い」と思うわけですが
本当に悪いのは、自分自身ということになります。

自分さえ冷静に事態を掌握することができれば
けんかになることはまずないからです。

もっというなれば、けんかをする人は 自分に自信がない ということになります。

自分の存在に絶対的自信があれば
常に冷静に相手の主張を受け止めることができるからです。

 ・・・幼児に対してムキになる大人がいないのは
    幼児に対して(身体が大きいだけでなく、人生経験という)
    絶対的自信があるからであって
    自分というものをしっかり持っていればすむ話ということになります。


いうなれば『アイデンティティの確立』といったところでしょうか。

アイデンティティとは、『自己同一性』あるいは『自我同一性』と訳され
「自分が何者なのかということを、自分自身で分かっている状態」のことを言います。

発達心理学者のエリク・H・エリクソン(1902-1994)は
人生の各段階において、アイデンティティの確立が必要だと述べています。

とりわけ、青年期以前にけんかが多いのは
アイデンティティが確立されていないから
(つまり、自分自身が見えていないから)ということになります。


では、どうすればアイデンティティを確立できるのでしょうか?


自分が何者かを知るためには
まず、社会がどのようなものであるかを知る必要があります。

また、社会を知れば、自分がどうあるべきかも見えてきます。

本を読むのもいいですし、いろいろな人と話をするのもいいと思います。

ほかにも「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがあるように
世界を旅して見聞するというのもいいでしょう。

(という私は、恥ずかしながら(?)(世界を旅する)勇気がないですが)

百聞は一見に如かず。

自分の目で世界の現実をみることが
人を大きくさせる要素のひとつだと言うことができると思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)