ハートオフィス・あおい

NEWS RELEASE 新着情報

明日につながる希望の哲学

眠れぬ夜に〔♯23〕『無』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯23〕

『無(む)』とは・・・
『無限にあること』である。



〔解釈とヒント〕

「自分には何もない」と嘆く人がいます。

果たして、本当にそうなのでしょうか?

確かに、仕事を失った人、大切な誰かを失った人、大きな失敗をした人などは
一時的にそのように思うことがあるかもしれません。

ただ、だからといって「何もない」と嘆いてしまうのは
二重の意味で間違っているような気がします。

ひとつは、なくなったものは一部のものに過ぎない という点について。
もうひとつは、『ない』とは無限にあることの “裏返し” だという点において。

最初の理由はよくわかると思います。

人間が本当に何もなくなるということはありません。

仕事や恋人を失おうとも、お金がなくなろうとも
(少なくても、自分が死んでこの世から消えてしまわない限り)
自分の身体や意識は残ります。

そう。 つまり、何もないというのは
(ここから、もうひとつの理由の説明になってきますが)
あくまで限定された状況にある『無』なので、 新しい何かが『ある』ことの始まりとなるわけです。


「日本人の庭は無だ」と表現されることがありますが
それは、西洋人が “慣れ親しんでいる” オブジェがないからにすぎません。

むしろ、日本の文化においては
禅の瞑想や美意識などにみられるように
何かがあるほうが(かえって)よくないとされることがあったりします。

おそらく、日本人は、その『無』の中に “無限の何か” を感じているからかもしれません。

「何もない」のではなく、無限に何かが「ある」のです。

宇宙の仕組みをみてもそう。

宇宙にはこんなにたくさんの星があるのに
その根源はブラックホールという名の『無』なのです。

そしてブラックホールは、無であると同時に『無限大』でもあります。


だから私たちも、「ない」ことを嘆く必要などまったくないと思います。

禅や芸術に限らず、日常においてさえも
何かがなくなってしまったことや、ないという状態において
もっと肯定的になればいいと思います。

「お金がない」のは、無限に貯めることのできる前提ですし
「気力がない」のは、無限にやる気が湧いてくる前提でもあります。

いまは疲れ果てているかもしれませんが
朝起きれば、また気力が湧いてくるに違いありません。

それは、『無』が『無限の有』だからです。


この命が尽きるまで、自分には無限の可能性が秘められているということで・・・

少しでも自分に勇気が持てるきっかけになればと思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯22〕『地域社会』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯22〕

『地域社会(ちいきしゃかい)』とは・・・
『お互いさまの空間』である。



〔解釈とヒント〕

普段の生活の中で、ものすごく大切なことなのですが
あまり意識しないもののひとつに『地域社会』というのがあります。

なぜ、ごみが回収されるのか?
なぜ、毎日安心して暮らせるのか?
なぜ、道沿いの街路樹や植木が整えられているのか?

それは地域社会がきちんと機能していることになります。


ではいったい、誰が地域社会を守っているかということになりますが、それは
警察官でもなく、近所を見守るおじさんやおばさんでもなく
(もちろん、その方たちの役割はものすごく重要ですが)
実は『私たち自身』なのです。

その場所に住んでいる以上、地域社会の一員であることは間違いないですし
自分の住んでいる地域の人のうち、誰か一人でも強盗に入られたとしたら
地域の安全は脅かされてしまいますよね。

つまり、地域の安全は
そこに住む我々一人ひとりの手にかかっているということになります。


そこで大切になってくるのが
(同じ地域社会を作る人たちを)『信頼する』という考え。

地域社会の人たちの行為を信頼しているからこそ
安心して毎日を過ごしていることになりますし
たとえ深い付き合いまではしなくても
お互い危険人物でないことは了解しています。

さらに何かあったとき、助け合うことも可能です。

過去に起こった数多くの災害に見られるように
自分を犠牲にしてでも助け合うのです。


では、なぜこんなことができるのでしょうか?


おそらくそこは、地域社会のメンバーの一人ひとりを結びつける
『お互いさま』の精神があるのではないでしょうか。

お互いさまというのは
困ったときには当然のように相手を助け、見返りを求めない行為 です。


通勤通学の際、何の警戒もなしに歩ける地域社会・・・

ごみをあさる人もいず、夜襲ってくる人もいない地域社会・・・

そしていざというときには助け合える地域社会・・・

こんなかわいげのある地域社会のために何かもっとできることはないか
少し考えてみるのもいいかもしれませんね。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯21〕『ペットを飼う』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯21〕

『ペットを飼う(ぺっとをかう)』とは・・・
『自分をかわいがること』である。



〔解釈とヒント〕

ペットは人を癒してくれます。

ペットに話しかけたり、つい、愚痴をこぼしてしまうことも
よくあることかもしれません。

カメに向かって
「おまえはのんきでいいよな~」
と話しかけてみたり・・・

でもこれは、カメにとってみれば失礼な話。

カメは別にのんきなわけではないのです。

カメにはカメの生活のペースがあって
ひょっとしたら、毎日必死に生きているのかもしれません。


多くの人たちは、動物と人間が
本質的に異なる生き物であると考えがちです。

というのは、動物は話すこともできませんし
物事を論理的に考えるための理性も持っていないと考えるからです。

しかし、実はそういう『人間中心主義』の発想こそが
動物虐待、ひいては、生態系の破壊をもたらしているといっても過言ではありません。


動物倫理の権威であるオーストラリア出身の
ピーター・シンガー(1946- )は、『動物解放論』の中で

「動物の命をむやみに奪ったり、動物を苦しめることは
 世界全体の幸福にとってプラスにならないのでやめるべきだ」


と唱えています。

虐待されたり、殺されたりする動物が “痛がっている” のは、間違いありません。

「その苦痛を世の中の幸せを計算する際に考慮せよ」

と言っています。


さて、話はペットに戻り・・・

さきほどの話にもあったように、私たちは知らず知らずのうちに
ペット(動物)に対し、人間中心主義的なふるまいをしてしまいます。

ペットをかわいがるといいながら、実際には自分自身をかわいがっているのです。

そのためにペットを利用しているだけということになります。

ペットがかわいいなら、犬を鎖で縛りつけておく必要はないでしょう。

犬に鎖をつけるのは
「逃げられたくない」という人間都合主義の考え方にすぎません。
(犬は自由に走り回りたいのです)

 「コホンッ」(←咳払い)

何もそこまで極端でなくてもいいかもしれませんが
もう少しペットの気持ちになってもいいんじゃないかな。と思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯20〕『喧嘩をする』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯20〕

『喧嘩をする(けんかをする)』とは・・・
『アイデンティティが確立されていないこと』である。



〔解釈とヒント〕

あとになって後悔することのひとつに
『けんか』というのがあると思います。

自分が相手に対して正しい・間違っている関係なく
「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」とか
「どうしてあんなことでキレてしまったのだろう」というように。

もともとしっかり議論できていれば、けんかをする必要がないわけなので
けんかをするということは、議論ができていない状態ということになります。

そして、議論できない状態というのは
冷静さを欠き、相手の話を聴く耳も持たず
自分の主張を一方的に押し付けようとする状態をいいます。


では、どうしてそんなことになってしまったのでしょうか?


けんかをしているときは、お互いに「相手が悪い」と思うわけですが
本当に悪いのは、自分自身ということになります。

自分さえ冷静に事態を掌握することができれば
けんかになることはまずないからです。

もっというなれば、けんかをする人は 自分に自信がない ということになります。

自分の存在に絶対的自信があれば
常に冷静に相手の主張を受け止めることができるからです。

 ・・・幼児に対してムキになる大人がいないのは
    幼児に対して(身体が大きいだけでなく、人生経験という)
    絶対的自信があるからであって
    自分というものをしっかり持っていればすむ話ということになります。


いうなれば『アイデンティティの確立』といったところでしょうか。

アイデンティティとは、『自己同一性』あるいは『自我同一性』と訳され
「自分が何者なのかということを、自分自身で分かっている状態」のことを言います。

発達心理学者のエリク・H・エリクソン(1902-1994)は
人生の各段階において、アイデンティティの確立が必要だと述べています。

とりわけ、青年期以前にけんかが多いのは
アイデンティティが確立されていないから
(つまり、自分自身が見えていないから)ということになります。


では、どうすればアイデンティティを確立できるのでしょうか?


自分が何者かを知るためには
まず、社会がどのようなものであるかを知る必要があります。

また、社会を知れば、自分がどうあるべきかも見えてきます。

本を読むのもいいですし、いろいろな人と話をするのもいいと思います。

ほかにも「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがあるように
世界を旅して見聞するというのもいいでしょう。

(という私は、恥ずかしながら(?)(世界を旅する)勇気がないですが)

百聞は一見に如かず。

自分の目で世界の現実をみることが
人を大きくさせる要素のひとつだと言うことができると思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯19〕『仕事をする』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯19〕

『仕事をする(しごとをする)』とは・・・
『創意工夫をすること』である。



〔解釈とヒント〕

「仕事が好きだ」と自信を持って言える人は
果たしてどのくらいいるでしょうか?

おそらく、それほど多くないと思います。

それは、多くの人々にとって『仕事』とは
生きるための手段としておこなっているからです。


そもそも『仕事』という概念は
昔から2つの分類で区別されてきました。

たとえば、古代ギリシャでは、奴隷に課せられていた肉体労働(プラクシス)と
自由市民の制作活動のような精神労働(ポイエーシス)という区別がされており
これを現代に “引き継いだ” のが、ドイツの思想家であるハンナ・アーレント(1906-1975)。 

彼女は、肉体労働をレイバー(労働)、精神労働をワーク(仕事)として使い分けました。

現代では(いや、昔からそうですが)肉体労働が “低く” 位置づけられているわけですが、それは
肉体労働が強制的に課せられる苦しいことの象徴として挙げられるものに対し
精神労働は本人がやりたくて行っていることの象徴・・・

言い換えると

肉体労働は受動的仕事であるのに対し、精神労働は能動的仕事

そう

仕事は、『受動的』と『能動的』の2種類が存在する

ことになります。


もちろん、好きで肉体労働をしている人もいるわけですが
(その逆で、好きでもないのに精神労働をしている人もいるわけですが)
『受動的』『能動的』という視点で考えた場合、両者の決定的違いは

『創意工夫があるか、ないか』

ということになると思います。

仕事に “やらされ感” を感じるのは、創意工夫をしないからであり
逆に “面白み” を感じるのは、創意工夫をしているからだといえます。

これが分かれば、話は簡単 ⁉

仕事を好きになるためには 創意工夫をすることから始める ということになります。

創意工夫と言っても、いきなり仕事の中で見つけるというのは難しいかもしれないので
仕事前の準備段階にて「どうしたら仕事に取り組みやすくなるのか」を
“創意工夫してみる” といいかもしれませんね。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯18〕『食事を摂る』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯18〕

『食事を摂る(しょくじをとる)』とは・・・
『「惜しい」と思うこと』である。



〔解釈とヒント〕

「ところで皆さん、きのうの夜は何を食べましたか?」

そう聞かれて、なかなかすっと答えが出てこない人も
実は結構多いのではないでしょうか。

それくらい食事を摂ることはあたりまえで
無意識で行っている行動のひとつだと言えます。


身体をつくる(もしくは維持する)ために、また、栄養を補給するために
すべての生物が行う、この『食事』という行為。

しかしながら、この『食事』の際に、人間だけが行うことがあります。

それは『儀式』です。

文化や宗教によって多少異なりますが
ほとんどが(食べ物に)何らかの感謝の意を表してから食べ始めます。

日本人は特に丁寧で
合掌して「いただきます」と唱和し、同様に合掌して「ごちそうさま」と唱和します。


では、なぜ私たちはこのような『儀式』を行うのでしょうか?

食事をつくってくれた人への感謝もあれば
その食材をつくってくれた農家の人たちへの感謝もあるでしょう。

はたまた、神や自然への感謝というのもあると思います。


日本の場合、本来の「いただきます」は、一拝一拍手のあと
「たなつもの 百(もも)も木草も 天照す 日の大神の めぐみ得てこそ」
という和歌を詠むのが正式な作法といわれています。

まさに神事ですよね。

欧米のキリスト教徒も同じように、神にお祈りを捧げてから食事をするわけですが
ベースにあるのは、日本と同様、自然の恵み、とりわけ命をいただいているところにあると思います。

にもかかわらず、現代はあまりにも何も考えず機械的に食事をするところがあるので
天の恵みに対する最低限の礼儀として、「おいしい、おいしい」と言って食べる必要があると思います。


ここでひとつ、「おいしい」の語源について考えてみると・・・

「好ましい」とか「優れている」という意味を示す
「いし」が変化したものと言われていますが
この「いし」を「惜しい」と捉えてみてはいかがでしょうか。

口に入れたものを「おいしい」と感じるのは、ほんの一瞬です。

喉に入ってしまえば、もう味は分かりません。

だからこそ、その一瞬を惜しいという気持ち
これが「おいしい」ということの意味だと捉えるといいかもしれません。

そうすると、普段何気なく摂る食事であっても
もっとゆっくり、味わって食べたいと思うようになるのではないでしょうか。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯17〕『服を選ぶ』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯17〕

『服を選ぶ(ふくをえらぶ)』とは・・・
『なるべき自分を選ぶこと』である。



〔解釈とヒント〕

私自身苦手なものに『洋服選び』があります。

お店で服を買うとき、自分がどんな服を着たいのか分からず
何回も試着を繰り返し、ものすごく悩むのは言うまでもなく
きょう1日どんな服を着るかということさえ困ることがあります。


ちなみに、おしゃれを上手に楽しめる人は
その日のTPOに合わせて服を選ぶことができますし
まったく無頓着な人はいつも同じような服ばかり着ているわけですが
その人を構成する要素のひとつに、また、その人を印象付けるものとして
服が重要な位置を示すことに無視できないところがあると思います。

というのは、服装は第一印象を決めるだけでなく、その人のキャラクターにもなるからです。
(いつも決まった格好で出てくる芸能人などは、その典型といってもいいでしょう)

つまり、服装はその人の『人格』の一部。

ダークスーツを着ている人はカチッとした性格を
派手な色のシャツを着ている人は外交的な性格を表現しているのです。

また、その日の仕事に合わせて服装を変えるということは
その日の自分の態度や方針を服装から表現することになるのです。

いくら真剣な雰囲気を出したくても
顔を簡単に変えることはできないですよね。

表情、髪型、メークを変えることに限界があるわけですが
その点、服装であればいとも簡単かつ大胆に印象を変えることができるのです。

このほかにも、『勝負服』なんて言葉があるように
服を選ぶということは、その日自分が戦う相手や獲物に合わせて
武器を選ぶことに等しいということが言えるかもしれません。


また(少し大それた話になってしまうかもですが)
『生きる』ということは、何らかの意味で勝負すると言えるので
私たちは毎日勝負するために服を選んでいるという言い方もできます。

いわば、その日なるべき自分を選んでいる のです。

つまり『なりたい自分』は、服装を選ぶことによって得られる わけです。

 ・・・ちなみに、裁判官が黒い服を着ているのは
    「何ものにも染まらない」という意味を含んでいるそうです。


少し逆の見方をすると
服装で自分をコントロールするということが言えるかもしれませんね。

イライラするときは落ち着いた色やデザインの服を着てみたり
落ち込んでいるときは明るい色や遊び心のあるデザインの服を着てみたり・・・


これから服を選ぶとき、そういったことを意識して選ぶようになると
少し自分に自信がもてるようになるかもしれません。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯16〕『通勤する』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯16〕

『通勤する(つうきんする)』とは・・・
『時間を有効に使うこと』である。



〔解釈とヒント〕

都会の電車通勤は地獄です。

またマイカー通勤にしても、ノロノロだったり
危険な運転をする人もいて、ストレスが溜まります。

その一方で、通勤時間は『自分(だけ)の時間』という見方もできます。

職場や学校などでは、もう自由にしていられないし
家にいる時間も、朝はあれこれ忙しいし
夜もあれこれしている間に、すぐに寝る時間になってしまいますよね。

そんな忙しい毎日を送る人にとってみれば
そのような見方(『通勤時間』を『自分の時間』とみる)が特に必要なのかもしれません。


このように、物事全体に対する一部の者の見方を変えることを
『構造主義』という言い方をするのですが
先ほどの例をもう少し詳しく書いてみると・・・

 『1日という時間を全体構造で見たとき
  通勤時間は、地獄の時間であるその一方で
  唯一プライベートを確保できる時間という見方もできる』


ということになります。

そのため、電車の中では
自己啓発に励む人、好きな音楽を楽しみ人
読書にふける人、睡眠を補う人がいるわけですし

また、マイカー通勤にしても
仕事場に向かう時であれば、その日に行われる会議のシミュレーションを頭の中でしてみたり
仕事場から家に帰る時であれば、気分にあった音楽をかけたり、“クールダウン” してみたり・・・

そういった意味では、よくある『ポジティブシンキング』というのも
この構造主義に似たようなところがあるかもしれません。


ついでに! というわけではないですが
ちょっとここで “計算” してみましょうか。。

もし仮に、片道1時間かけて通勤したとすると・・・

1年(240日出勤)で480時間 → 20日間に相当

それを、40年間がんばって続けたとすると・・・

20〔日間〕×40〔回〕=800〔日間〕 → 2年2ヶ月ちょっとに相当

つまり、一生のうち通勤にかけている時間は、2年2ヶ月ちょっとにもなるわけです。
これはもう、有効活用するしかないですよね。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)
 

眠れぬ夜に〔♯15〕『健康』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯15〕

『健康(けんこう)』とは・・・
『仕事の能力』である。



〔解釈とヒント〕

ところでみなさま、現在の身体の状態はいかがでしょうか?
健康ですか? それとも・・・?

いずれにしろ、病気にまではならないにしても
身体の調子が悪かったり、疲れていたりすることによって
仕事などのパフォーマンスが下がったり、やる気が出なかったり
かえってなかなか寝付けなかったりするという経験は、一度はされたことがあると思います。

健康であってこそいい仕事ができるわけですからね。


フランスの哲学者に、メルロ・ポンディ(1908-1961)という人がいるのですが
彼は身体の大切さについて哲学的に考察をした初めての人物と言われています。

そんな彼が『身体』というものを

「私たちが物を見たり、触ったりして外の世界を知覚するのは
 すべて自分たちの身体を通じて行われている」

と表現したわけですが
(「そんなもん、あたりまえじゃん」と言われてしまうのでもう少し踏み込んで書くと)

身体こそが私たちの世界や心を作っている =(身体は)外の世界と自分とをつなぐ唯一の手段

つまり、身体というものが単に『自分の身体』という枠を超えて
世界と自分とをつなぐ『媒体物』として定義したことです。

そうなると、身体が病んでいては、まともに社会につながることはできないですよね。

仕事ができなくなるのはもちろんのこと
他者とのコミュニケーションもうまくいくはずがないと思います。


もっとも、ここでいう『健康』とは
「病気をしない」ということだけではなく、「身体能力が高い」ということも含まれてくるわけですが。

(どれだけよく “動けるか” が仕事にとって大事な要素となるので)


そしてもうひとつ、忘れてならないのが『こころの健康』

文頭の冒頭に「疲れているとやる気が出なくなる」といったように
身体と心はつながっていることをちゃんと知っておく必要があると思います。

(やる気がなくなって “うつ” になってしまったら、どうしようもないですからね)

人間が社会生活を営む限り、身体はそのための “インターフェイス”
常日頃からかなり意識をして身体をいたわる必要がありそうです。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯14〕『運命』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯14〕

『運命(うんめい)』とは・・・
『強く生きるための条件』である。



〔解釈とヒント〕

ふと、自暴自棄になりかけたついでに
「どうして自分はこんな家に生まれてきたんだろう」とか
「どうして自分ばかりこんな嫌な目に合うんだろう」など
自分の運命が嫌になることはありませんか?

その運命というもの・・・

何かしらの困難や努力の過程において「乗り越えられる」という発想もできますし
その困難や努力を克服した際「乗り越えられる運命だった」ということも
(当事者であれば)ある意味自慢げに言うことができるわけですが、悲しいことに、すべては結果論。

なので、結局のところ「運命は神のみぞ知る」ということになり
運命を乗り越えられたかどうかは、誰も確証を持つことができません。

そう。運命とは基本的に逃れられないもの。

そのため「どうせ神様が運命を決めているのだから、努力しても無駄だ」と
つい考えたくなります。

この「どうせやってもダメなら、やらない方がいい」という態度は
ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)のいう
ニヒリズム(虚無主義)という考え方なのですが、この考えは
決していい結果をもたらすものでないことはなんとなく想像がつきますよね。

(何もとげられないまま人生を終えてしまう可能性がある)


そこでもうひとつニーチェが出し導いたものがあり
それは『運命愛』という考え方。

説明すると・・・

基本的に苦しいことばかりで、その苦しさから逃れることができないこの世の中・・・
であれば(ある意味開き直って)「運命を受け入れてしまいましょう」という態度のことです。

逃げても仕方ないなら、受け止めるしかなく
まさに「運命を愛しましょう」ということ。

それができたときにはじめて人間は人間であることを超越し『超人』になれるというわけ。

『超人』とは強く生きることのできる人のメタファー(例え)だと言えるので
そういった意味では、『運命』とは『強く生きるための条件』のようなものなのかもしれません。


そして最後に、もうひとつ。

『運命』は「命を運ぶ」と書きますよね。

困難にもめげず “命を運び続ける” ために
私たちは運命が必要だということができると思います。

そのためには、失敗も含め、すべてを受け入れる強さが必要なのかもしれません。

失敗を隠さない人ほど強い人はいないですからね。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)