ハートオフィス・あおい

NEWS RELEASE 新着情報

明日につながる希望の哲学

眠れぬ夜に〔♯36〕『眠り』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯36〕

『眠り(ねむり)』とは・・・
『意識の気分転換』である。



〔解釈とヒント〕

皆さんはちゃんと眠っていますか?

いや、眠れない夜にこの文章をご覧いただいているくらいですから
睡眠不足の方のほうが多いのではないかと思います。

眠れないのにはいくつかの原因があります。

たとえば、身体が疲れていない、興奮している、心配事があるといったように。

身体が疲れていないのは別にして
それ以外の原因については、言ってみれば “寝ていられない” 精神状態にあるわけです。

そのなかでも、ワクワク興奮しているのならいいですが
怒りや心配ごとで寝られないというのは、あまりよくないですよね。

心を落ち着かせる必要があります。

そもそも、寝なかったからといって解決する問題ではないのです。

たいていは身体や精神の疲弊をもたらし、悪い方向に行くだけです。


『眠り』について最初に哲学的視点で考えたとされるのが
古代ギリシャの哲学者・アリストテレス(前384-前322)です。

彼は現実主義者で有名です。

何しろ、物事の真理はどこかの別世界ではなく
目の前にあると唱えた人です。

つまり、彼は『ヒュレー』と呼ばれる材料の中に
完成状態としての『エイドス』が既に備わっているとみるのです。

種は最初から花となり、材木は最初から家になる運命にあるというように。


そんな彼によると、睡眠とは「感覚が働かないでいることだ」といいます。

身体の器官には休み(睡眠)が必要なのです。

なぜかというと、それは再び活動するからです。

物を長く使い続けるためにはメンテナンスが必要ですよね。

休みなく動かし続けると、疲弊してダメになるのは、物も人間も同じなのです。


あと、おもしろいのはアリストテレスのいう睡眠は
一部の器官を休ませることでは決してなく
共通感覚の停止であるとしている点です。

個別の器官、たとえば、足が疲れたから腰掛けるというのと違って
意識そのものを休ませる必要がある ということです。

確かに、寝ている間も心臓は動き続けていますから
すべて休ませるのは不可能です。

休ませる必要があるのは、意識なのです。

私たちの意識は、再生産が必要なのです。

意識を一旦リセットすることで、人はまた生きていくことができます。

「一晩寝たら怒りが収まった」というように
何日か経てば自然にリセットされることがあります。

その意味で、腹の立つことがあろうが、心配ごとがあろうが
とにかく放っておいてあとから寝るというのは
正しい選択なのかもしれません。


人がうまく生きていくためには、気分転換が不可欠 なのです。

そう、睡眠は最高の気分転換 なのです。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)


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これまで計36回にわたって書いてきた
〔眠れぬ夜に・・・明日につながる希望の哲学 〕シリーズ(※)
今回をもって終了することとなりました。

自分の中で何か悩みや問題ごとを抱えたとき
どうしてもそれを解決しようとして躍起になることが多いわけですが
(主観的ではなく)一歩引いて、客観的に捉えられた方が
自分の求めている〔結論〕〔方法〕が出やすいのは経験としてお持ちではないでしょうか。

その客観的に捉える方法として挙げたのが
今回、カテゴリーとして設けた『哲学』の力を借りることによって “答え” を導く方法。

普段よりよく用いられる36個の単語とその哲学的意味を載せてまいりました。

哲学的意味を知ったからといって、ご自身が抱えている問題や悩みが解決するものではありませんが
各々の言葉の具体的イメージをつかむことで、問題や悩みを解決するための足掛かりになればと思います。


 (※)眠れぬ夜に・・・明日につながる希望の哲学シリーズ
    (カテゴリー『明日につながる希望の哲学』)
 http://www.heartoffice-aoi.com/index.php/news/archives/category/philosophy

眠れぬ夜に〔♯35〕『希望』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯35〕

『希望(きぼう)』とは・・・
『まだないもの』である。



〔解釈とヒント〕

ある意味で希望は『生きる勇気』であるように思います。

よく災害の被害に遭った人や、戦争を経験した人から
「かすかな希望」だけを胸に生き抜いたという話を聞きます。

想像を絶するような苦しみの中にあっても、なぜ人は前に進むことができるのか?

それはその状態が永続するものではないと信じられるからです。

反対に、その状態が永遠に続くとしか思えないとき
人はあきらめ、自ら命を絶つことさえあります。

希望が途絶えた状態・・・それが『絶望』です。

だから生きるためには『希望』が不可欠なのです。


では、希望とは何でしょうか?

ドイツ出身のユダヤ系哲学者、エルンスト・ブロッホ(1885-1977)は
『希望の原理』の中で「希望とはまだない存在」だといっています。

つまり、人間の内部には、過去に向けられた意識されないものとともに
未来に向かう「まだ意識されないもの」があるとされ
この意識されないものが、予感、憧憬、空想、白昼夢という形で
意識に上がってきて、希望の内容を形作るわけです。

だから、希望を確固たるものにすることが重要であり
希望の輪郭が明確であればあるほど、人は勇気づけられるでしょう。


しかし厄介なことに、希望はいったんかなうと
すぐに物足りなくなってくるものです。

人間というものは欲深いものですね。

なので、ある意味
「どの願望充足にも希望という固有の一要素が実現されずに残る」
とも言えるのです。

つまり、希望はいつまでたっても物足りなさを残すがゆえに
逆に新たな希望を抱き続けることができる
のです。

そうしてまた前に進んでいけるのです。

よって、希望がかなうことは大変素晴らしいことなのですが
その後もう二度と希望を抱けないとしたら、それはまさに悲劇なのです。

人間が歩みを止めてしまうことになるのですから。

その意味でブロッホは
「希望は歴史の推進力」である ともいっています。

希望があるから社会は発展し、歴史は前に進む のです。

私たちが社会全体としても希望を抱かなければならない理由はここにあります。


いま、社会に希望がないといいます。

成長の見込めない経済、行き詰る政治、人口の減少、環境の悪化・・・
(それにもまして、いまだ収束する見込みのない『コロナ禍』)

この国の、いや、この地球のいったいどこに希望があるのかと。

でも、なにかに希望を見出さなければ、人と同じで社会も止まってしまいます。


先日、道端に数人の子どもたちが集まっていました。

翅(はね)の折れた蝶がもだえているので
助けようとしていたようです。

いずれは死んでしまうであろう一匹の蝶・・・

しかし、その命を救おうと、懸命に頭を悩ます子どもたち・・・

こういった、彼らの姿こそが大きくなって
ゆくゆくは社会の希望にもつながっていくように思うのです。

世の中全体を見ると暗澹(あんたん)たる気持ちになりますが
こういう小さな部分で、私たちの社会はまだ希望の光をささやかに
しかし力強く放とうとしているのです。

私たち一人ひとりの希望もそれでいいのかもしれません。

どんなにささやかなものでも、生きていくには
十分、力強い光を放つのです。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯34〕『勇気』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯34〕

『勇気(ゆうき)』とは・・・
『的確な目的を抱いた状態』である。



〔解釈とヒント〕

きょう1日、勇気がなくて失敗したことを思い出してみてください。

告白できなかった・・・
会議で手があげられなかった・・・
困っている人を助けられなかった・・・

いずれも、あと少し勇気があれば、なんとかなったでしょう。

勇気がなかったがために、後悔する結果となる。

思い出すと夜も寝られないという人がいるのではないでしょうか。


では、どうすれば勇気を出せるのか?

「根性を鍛えればいい」などという人がいますが、その方法が問題です。

バンジージャンプを体験すれば、勇気が持てるようになるとは思えません。

高いところから飛び降りることに対して免疫が付くかもしれませんが
それは勇気とは異なります。


そんな私も、いままで生きてきて
数えきれないくらい多くの後悔があるように思うのですが
(やはり(?)やった後悔よりやらなかった後悔の方がはるかに多い)
いま思えば、私が “チャレンジ” できなかったのは
負けるのが怖かったからだと思います。

要は『負ける勇気』が持てなかったからです。


では、改めて勇気について考えてみたいと思います。


これまで何回か出てきましたが
古代ギリシアの哲学者・プラトン(前427-前357)が
『ラケス』という本の中で『勇気』について論じている部分があります。

ラケスというのは、将軍の名前で
兵士を題材にその本質を暴こうとしているわけですが
兵士に欠かせない勇気のひとつである「忍耐強さ」は、目的次第であるということが結論付けています。

例えば、兵士になって戦死するのは怖いけれど
「祖国を守る」という目的があるなら、その怖さが薄れるというのです。
(より忍耐強くなって “勇気が増す” )

単なる「怖いもの知らず」もいますが
それは動物や子どものようなものであって、勇気とは異なりますよね。

つまり、勇気を持つためには
(根性で鍛えるのではなく)明確な目的を定めればいい ということになります。

そうすれば、いかなる恐怖を乗り越えて行動に移せるに違いありません。


では少し改めまして
人間にとって『恐怖』とは・・・それはやはり生きることそのものになると思いますが
(これまでの話同様)生きる目的をしっかりと抱くことができれば
どんな困難にも立ち向かっていけるように思うのです。

少し前に述べた『負ける勇気』というのも同じです。

負けることが自分を強くし、成長する契機になると捉えるようになり
それをチャレンジの目標に据えることができるのです。

勇気は持とうと思って持てるものではありませんが
目的をしっかりと定めることができるなら(勇気を持つことも)できるはずです。

そうすれば、勇気を持てなかったことで後悔する夜もなくなることでしょう。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯33〕『未来』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯33〕

『未来(みらい)』とは・・・
『いまを生きること』である。



〔解釈とヒント〕

眠れない夜に未来に対して思いをはせるのは
いい面も悪い面もあるでしょう。

いい面は希望を持てる点、悪い面は希望を持てないという点です。

つまり、未来というのは先の話であるだけに
そこに明るい兆しがあればそれは明るい未来としていい意味を持ちます。

これに対し、明るい材料が何もなければ
未来は希望を持てない暗いものとして悪い意味を持つのです。


しかし、一般的に未来というのは、いいニュアンスで捉えます。

過去、現在、未来という3つの時代区分の中で
もっとも輝かしいものとして描かれるのです。


「TIME タイム」というSF映画があります。

25歳で成長が止まり、あとは
富裕層には永遠の命が与えられるのに対して
貧困層は余命1年だけが与えられます。

彼らは労働によって時間を稼ぐか、人からもらうか奪うかによって
寿命をのばすほかないのです。

ここでは時間が通貨として流通し
人々は稼いだお金で、いや、時間の分だけ生きられるのです。

貧困層の人間は、常に時間とにらめっこして生きなければなりません。

おそらく彼らには未来などないのでしょう。

あるのはきょう1日をいかに生きるかだけです。

反対に、永遠の命が与えられた者はどうかというと
これもまた未来に希望を託すことなどありません。

同じことが続くだけの人生・・・

中には、自ら命を絶とうとする者も出てきます。


つまり、 残された時間のない者も、有り余るほどある者も
ともに未来に希望を託すことなどできない
​ のです。

結局のところ、彼らは いまを生きている のです。

実はこの映画の登場人物に限らず
人間は皆そうなのかもしれません。

それは未来という時間の意味を考えれば分かると思います。


例えば、古代キリスト教の哲学者アウグスティヌス(354-430)は
未来を含む時間について、人間と心との関係で捉えています。

過去、現在、未来などとあたりまえのようにいいますが
実際は過去などというものは存在しません。

過去は “過ぎ去っている” のですから。

未来も同じ・・・まだ “ない” 存在なのです。

その意味で、あるのは今だけ です。

にもかかわらず、私たちはこの3つの時間を抱き
それぞれを区別しようとします。

それは私たちの心が、今を実感するだけでなく
過去を記憶し、未来に思いを馳せるからです。

また、アウグスティヌスは、時間とは延長だとも言っています。

つまり、過去、現在、未来という3つの方向に心が延びるイメージなのでしょう。

現在を起点に、私たちの心は
今にも、過去にも、未来にも延びていきます。

ときにそれは後悔という形をとって、ときに期待という形をとって。

でも、それらはいずれも
いまをどう生きるかという問題にほかならない のです。

そう考えると、いま、この時間を
ポジティブな気持ちをもって生きた方がいいのか
ネガティブな気持ち(を抱えたまま)で生きた方がいいのか
おのずと答えが決まってきそうですね。

まだ誰も知らない、明るい未来を信じて。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯32〕『明日』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯32〕

『明日(あす)』とは・・・
『生きる楽しみ』である。



〔解釈とヒント〕

ところでみなさま、明日が来るのは楽しみですか?

といっても、明日がどんな一日なのか(ほんとうは)分からないので
答えようがないですね。

明日とは誰も知らない世界です。

でも、一番近い未来です。

夜寝て、朝起きると明日になっている。

それはもう、今日過ごしたこの世界と異なる別の世界なのです。

だから寝るという行為が重要になってきます。


ずっと起きていて、ある瞬間から別の世界になるというのではなくて
目を覚ますと別の世界になっているというのは
なんともドラマチックじゃないですか。

まるで朝起きたら一面の雪景色になっていた冬の日のようで。

そう考えると、少し大げさな言い方になってしまうかもしれませんが
人間、明日があるから生きられる という言い方もできると思います。


明日何かが起きるかは、やはり明日になってみないと分かりません。

だから楽しみなのです。

こんなふうに書くと、私たちはいかにも運命に翻弄されて生きているかのようですが
そんなことはありません。

明日何が起こるかも分からないというとき、実はその主体として
自分も対象になっているのです。

つまり、明日起こることは自分の行動次第 でもあるわけです。


フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)は

 人間とは、すでにある何らかの本質に支配された存在では決してなく
 自分自身で切り開いていくべき実存的存在に他ならない

と唱えました。

彼はこれを「実存は本質に先立つ」と表現しました。

実存とは存在のことで、本質とはあらかじめ決められた運命みたいなものです。
それゆえこの思想は、実存主義 とよばれます。

物の場合、用途があらかじめ決められているため
その意味で本質が実存に先立っています。
(『存在意義』が限定されている)

ところが人間の場合は、最初は何でもない存在ですが(何もできない)
後になって “はじめて” 人間になります。

しかも運命を超えて自らつくったところのものになるというのです。

そう。実存が本質に先立つわけです。

サルトルはこの状態を「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。

これは、常に自由に何かを選択するほかなしに
一歩も前に進むことのできない人間の性(さが)を表現したものなのです。

「何をしてもいい」と言われると
人はかえってとまどうものなのです。


ただ、この言葉は、私たちが無数の選択肢の中から
その都度自由に選択して人生を歩んでいるという
素晴らしい事実を認識させてくれるものでもあります。

私たちは、無数の選択肢から次の行動を選ぶことで
明日をつくることができるからです。

だから本当は、明日どうなるかは誰も知らないけれど
明日どうするかは自分で決められるし、逆に自分しか知らないのです。

こんな痛快なことはありません。

明日みんなを驚かせてやろうなんて思いだしたら
もう待ちきれませんよね。

皆さんは明日何をして世界を驚かせますか?


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯31〕『幸福』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯31〕

『幸福(こうふく)』とは・・・
『偶然心が満たされること』である。



〔解釈とヒント〕

もし仮に、皆さんがいま幸福であると感じているのなら
夜眠れないこともそれほどないでしょうし
おそらく、この文章も目にされていることもないでしょう。
(せっかくご覧いただいているのに、すみません。。)

つまり、どこかで幸せじゃないと感じているから
イライラするし、ため息も出るし、夜眠れなかったりするのです。


特に21世紀にはいってからでしょうか・・・
以前よりも幸福感について問われることが多いように思います。


果たして、自分は幸福なのかどうか。。。

起きた出来事やある事象に対し
不幸と感じるもいれば、幸福と感じる人もいるわけですが
この違いは、幸福の相対性、つまり
幸福の基準のあいまいさに起因しているといえます。

つまり、これなら絶対幸福だという基準がない のです。

もし仮に、有り余るほどお金があったとしたら
幸福と感じるかどうか・・・

確率的にそう感じる可能性は高そうですが
実際お金があったとしても、何か満たされない人はいるのです。

そう。結局のところ
心が満たされていないと幸福ではなく
心が満たされていれば、一応であっても幸福ということが言えるわけですが
問題は いかにして心を満たすか というところにあると思います。


その(心を満たすための)方法のひとつにあるのが
「常に未来において “失敗” しないような選択をし続ける」というもの。

つまり、ハードルを低くして生きていくのです。

でも、それで本当に満たされるのでしょうか?

きっとどこかで自分は我慢しているという不満が残るのではないでしょうか。


そのほかの方法としてあるのが
「前向きに生きる」というもの。

失敗しても、嫌なことがあっても、とにかく、不幸と思わない。

後悔は禁物。 もちろん、嫉妬も。

嫉妬は不幸の根源ですから。

ただ、これができれば苦労はないわけで、普通では到底無理です。


そこでお勧めしたいのは、第三の方法。

いわば「不幸があたりまえだと思って生きる」というもの。

ハードルを下げたり、めちゃくちゃポジティブになるのは難しいにしても
この方法ならできるのではないかと思うのです。

僥倖(ぎょうこう:思いがけない幸い)ということばがあるように
幸福なんて偶然の産物なのです。

それがあたりまえの状態だと思ってはいけません。

そのため、たとえ「幸福じゃない」から夜眠れなかったとしても
(思い悩むのをやめて)読書を楽しむとか、音楽を聴くとか。

逆説的ですが、実はそうすることで
自然に幸福におもえ思えてくるはずです。


なにしろ、フランス語で『bonheur(良き時間)』というように
良き時間が幸せをもたらすのですから。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯30〕『夢』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯30〕

『夢(ゆめ)』とは・・・
『はかなさ』である。



~解釈とヒント~

『夢』と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

寝ているときに見る夢でしょうか?
起きているときに見る夢でしょうか?

寝ているときに見る夢は
睡眠中の人間が、あたかも現実であるかのように
抱いてしまう心像ですね。

これは、精神医学で
オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイト(1856-1939)が
明らかにした『無意識』の領域です。

人間の心には無意識の部分があって
それは現実の生活と関係しているといいます。

いわば、外に現れない願望が
『夢』という形をとって出てくるのです。


では、起きているときの夢とは何でしょうか?

簡単に言えば、“思い描くもの”

大きく分けて2つあり

ひとつは、「夢を持て」というときの『夢』
(『理想』と言い換えることができると思います)
そしてもうひとつは、「夢のようなことばかり言うな」というときの『夢』
(『幻想』と言い換えることができると思います)

どうして2つのちが違いがあるかというと
おそらくそれは、現実でないものに対する
人の態度の違いに起因しているのでしょう。

つまり、現実ではないものや状態は
肯定的に捉える人と否定的に捉える人との違いになります。

(『理想主義』と『現実主義』の違いといっていいでしょう)


では、なぜ人は同じ『夢』というものに対し
まったく正反対の視点から捉えてしまうのでしょうか?

それは、夢の持『はかなさ』が災いしているのだと思います。

従来、日本でも和歌などに『夢』という言葉が多用されてきましたが
それらはすべて物事のはかなさを表現したものでした。

夢というのは、必ずしも叶うものではないからです。

大きな野望を抱いて、それに向かって一生懸命努力しても
叶わないことがあるのです。

豊臣秀吉の辞世の句に

「露と落ち 露に消えにし わが身かな 浪速のことも 夢のまた夢」

というのがありますが、秀吉は
天下統一が永遠に続くものではないことをすでに感じ取っていたのです。

この『はかなさ』が、夢に相反する2つの評価をもたらすわけです。


さて、ここに冒頭に挙げた、睡眠中に見る夢が関係してきます。

起きている間に人間に抱く夢が
肯定的に受け止められるにせよ、否定的に受け止められるにせよ
いずれにしても『はかなさ』を根底に有しているだけに
寝ているときに見る非現実の夢を同一のものとしてみなさざるを得ません。

ということは、やはり寝ているときに見る夢も
寝ているときの夢と同じ『願望』なのです。

願望であれば、抑える必要はありません。

いくらでも抱けはいいのです。


ただ、問題があって
起きているときの夢は、寝ているときの夢と違って
(起きているときに)行き詰まって夢から覚めても
現実に戻れることはないという点です。

現実の世界で夢を見てしまうと
行き詰まった責任も自分で負わざるを得なくなります。


ただ、その一方で
夢が叶うという利点も忘れてはいけません。

いうまでもなく、これはステキなことですよね。

そう考えると、寝ているときに見る夢くらいは
ありえないほどのステキなものであってもいいですよね。

今夜皆さんが、ステキな夢を見られることを祈りたいと思います。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯29〕『午前0時』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯29〕

『午前0時(ごぜんれいじ)』とは・・・
『人生のリセットボタン』である。



〔解釈とヒント〕

午前0時は24時間のスタート。

日付けの変わり目ですから
普通の時間とは、ちょっと意味合いが異なります。

NHKのEテレ『2355』という、ちょうど午前0時になる直前に
眠りを誘うようなアニメーションを淡々と流す5分間番組がありますが
なぜこの番組が人気があるのでしょうか?

もしかしたら、カウントダウンのようなイメージがあるかもしれませんね。

とにかく、すべてが変わるような
そんな印象を与えてくれるのが、この『午前0時』なのです。


とはいえ、実際には何も変わらないわけですが
何が変わるかというと、それは、私たちの意識ということになります。

眠れぬ夜に悶々としていても
午前0時になれば、新しい日がやってきますよね。

そしてその心理効果には、大きいものがあります。

悩みも自分も、何も変わらない現実の中で
その瞬間少なくとも日付けだけは変わるのです。

それを実感するには、時計の針が午前0時を過ぎるのを
見つめるだけで十分なのです。


しかも面白いのは、午前0時という数字・・・

24時間たったあとは、また0時に戻るのです。

これはすごろくで振り出しに戻るのに似た感覚があります。

その日いくら成功しようが失敗しようが
全員振り出しから “やり直し” なのです。

もう少し極端な言い方をすると、午前0時という時間は
きょうの1日だけでなく、それまでの人生のすべてをリセットし
もう一度最初から構築し直すチャンスを与えてくれているといえます。

つまり私たちは
そんな “人生のリセットボタン” を毎日押している といってもいいでしょう。


♪ぼくらは位置について、横一列でスタートをきった・・・
(作詞作曲:スガシカオ「Progress」より)

午前0時という一瞬は、もう一度そう感じさせてくれる大切な一瞬なのです。

あと一歩だけ前に進むためにも・・・


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯28〕『美』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯28〕

『美(び)』とは・・・
『心を落ち着かせるもの』である。



〔解釈とヒント〕

『美』という1文字から連想するもの・・・

芸術品や伝統工芸だったり、女性だったり、センスだったり
人によっていろいろあるわけですが、端的に言えば
いいもの、理想的なもの(あこがれを含む)ということになるのかもしれません。


古代ギリシャの哲学者プラトン(427B.C.-347B.C.)は
『美』を「永遠の理想、つまりは完璧な状態であること」を定義しました。

完璧というのは、顔やスタイルに置き換えると、均整がとれているという意味です。
(平たく言えば「整っている」)

その一方で、芸術を見れば分かるように
美は左右対称だからいいというものではありません。

ときにはアンバランスが美しいということにもなるのです。

ピカソの絵しかり、盆栽しかり・・・

これらの芸術分野に代表されるように
近代に入ってから哲学者が唱える『美』は
主観的、感性的なものが主流になってきます。

そうなると、美の基準は人によってまちまちになることから
美というものが普遍的でないということになってしまうわけですが
これについて、ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は
『趣味判断』という概念を唱えています。

つまり、美の基準は人それぞれであっても
美という感覚を構成するのはどの人も同じメカニズムである という点に着目したのです。

よって、たとえ『美意識』が人によって異なったとしても
それらを共有できる可能性はあるというわけです。

また、カントは『共同体感覚』といって
同じ共同体ではそういう共通の土台があることも言っています。

同じ共同体にいると、感覚が同じになってくるのでしょう。

つまり日本人なら、この風土の中で過ごすことで
おなじ日本人的な美意識を持つようになるということです。


その他、時代によって『美の基準』が変わるのも同じような理由のひとつと言えそうです。

昔の写真や映像を見ると、ほんの十数年前にも
あんな服やメークが流行っていたのかと驚くことさえあります。

また、同じ一個人の中でも、年齢を重ねるによって美意識が変わっていくのも
ある意味、面白かったりします。​

でも実は、これはとても大事なことで
美意識が変わっていく、つまり “好みが変化する” というのは
実は好みの範囲が広がることを意味しており
何が完全なのか判断する際の幅が広がるということです。

つまりこれは、美に関しても寛容になる ことを意味し
美に関して寛容になるということは
他者をより認めることができるようになることにつながります。

「日本人だからといって日本人しか美しいと思わない」というのでは
人種的偏見につながりますよね。

それを克服するためにも
美意識の幅が広がるのは望ましいことと言えます。


日常においても、何でも美しいと思うことができれば
自然と心がおおおらかになるのではないでしょうか?

ちなみに、女性がリラックスのために行くエステは
『エステティック(美的)』に由来する語ですが
なんでも美的と思うことでリラックスできるなら
こんな手ごろなエステはありません。

リラックスして眠るなら、マッサージも何もいらないのです。

ただ周りにあるものを美しいと思えばいいだけですから。


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)

眠れぬ夜に〔♯27〕『色』とは?

みなさま、いつもありがとうございます。

眠れぬ夜に・・・
明日につながる希望の哲学シリーズ〔♯27〕

『色(いろ)』とは・・・
『感性を映すもの』である。



〔解釈とヒント〕

日本人に「虹は何色ありますか?」と質問してみた場合
多くの人が「7色」と答えると思います。

確かに、日本の虹の色は
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色と “決まって” います。

でも、古代にさかのぼってみると5色だったそうです。

これは、虹そのものが変わってしまったわけでも
科学の進展によって新事実が発見されたわけでもありません。

単に「色の数が増えた」のです。

ちょっと黄色がかった赤に別の色の名前をつけただけなのです。

「赤と橙を区別しよう」というように。


これと同じ理屈で、いまでも欧米では虹の色は5,6色されています。

アフリカでは2,3色という民族もあるそうです。

どうしてそうなるかというと
その国(民族)に微妙な色の違いを表現する言葉がないからです。


ひとつ例に挙げてみると・・・

フランスには蛾がいないと言われていますが
それは、蝶を表わす「パピヨン」という語が
蛾も含んでいるからです。

フランスには実際に蛾はいるわけですが
蝶と蛾を区別する必要がないため
蛾に相当する言葉がないということになります。


つまり、国や地域によって
物事を区別する感性が異なることになりますね。


さて、話を『色の話』に戻して・・・

日本語には色の名前が何百種類(いや、もっとかな)もあります。

萌黄色とか、群青色のように。

おそらく、それだけ感性が豊かな証拠なのでしょう。

季節の移り変わりにも敏感で
自然の微妙な変化にも気を配る傾向がありますから
当然それらを表現する色も豊富にあるわけです。

よって、色は感性を映しているといっても過言ではないと思います。


そういった意味では「色っぽい」という言葉も
単純にせっくすセックスシンボルとしての意味を持つだけではなさそうです。

アメリカだとセクシーはセックスシンボルを形容しますが
日本の「色っぽい」は、まさに「色々」なのです。


ちなみに、皆さんの人生は何色ですか?

私は、もちろん

「バラ色」

になれば、うれしいなぁ・・・


(引用:『眠れぬ夜の哲学』小川仁志著 PHP研究所)